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日給
「日当」とも呼ばれる一日を単位とした賃金に、実働日数をかけて給与を計算する方式です。
外国為替証拠金取引には推古天皇二八年(620年)に、聖徳太子、蘇我馬子らが共同で「天皇記・国記・臣連伴造国造百八十部・公民等本記」を編纂したという記録[4]がある。当時のヤマト王権に史書編纂に資する正確かつ十分な文字記録があったと推定しうる根拠は乏しく、その編纂が仮に事実であったとしても、口承伝承に多く頼らざるを得なかったと推定されている。なお、『日本書紀』によれば、この時聖徳太子らが作った歴史書『国記』、『天皇記』は蘇我蝦夷・入鹿が滅ぼされた時に大部分焼失したが、焼け残ったものは天智天皇に献上されたという。
もとの名称が『日本紀』だったとする説と、初めから『日本書紀』だったとする説がある。
資産運用とする説は、『続日本紀』の上記養老四年五月癸酉条記事に、「書」の文字がなく日本紀と書かれていることを重視する。中国では紀伝体の史書を「書」(『漢書』『後漢書』など)と呼び、帝王の治世を編年体にしたものを「紀」(『漢紀』『後漢紀』)と呼んでいた。この用法に倣ったとすれば、『日本書紀』は「紀」にあたるものなので、『日本紀』と名づけられたと推測できる。『日本書紀』に続いて編纂された『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』がいずれも書名に「書」の文字を持たないこともこの説を支持していると言われる。この場合、「書」の字は後世に挿入されたことになる。
『日本書紀』とする説は、古写本と奈良時代・平安時代初期のように成立時期に近い時代の史料がみな『日本書紀』と記していることを重視する。例えば、『弘仁私記』序、『釈日本紀』引用の「延喜講記」などには『日本書紀』との記述が見られる。初出例は『令集解』所引の「古記」とされる。「古記」は738年(天平10年)の成立とされている。『書紀』が参考にした中国史書は、『漢書』『後漢書』のように全体を「書」としその一部に「紀」を持つ体裁をとる。そこでこの説の論者は、現存する『書紀』は、中国の史書にあてはめると『日本書』の「紀」にあたるものとして、『日本書紀』と名づけられたと推測する。
なお、一部には、『日本紀』と『日本書紀』とは別の書であると考える研究者もいる。『万葉集』には双方の書名が併用されている。
投資信託の中頃以降に言い伝えを元にして日本の歴史をまとめた『帝紀』・『旧辞』[5]、諸氏の伝承、寺院の縁起、漢籍(三国志、漢書、後漢書、淮南子等)などを取り入れていると言われている。なお、『日本書紀』によれば、620年(推古28)に聖徳太子や蘇我馬子によって編纂されたとされる『天皇記』・『国記』の方がより旧い史書であるが、645年(皇極4)の乙巳(いつし)の変とともに焼失した。『日本書紀』は本文に添えられた注の形で多くの異伝、異説を書き留めている。「一書に曰く」の記述は異伝、異説を記した現存しない書が『日本書紀』の編纂に利用されたことを示すと言われている[6]。
なお、『日本書紀』では既存の書物から記事を引用する場合「一書曰」、「一書云」、「一本云」、「別本云」、「旧本云」、「或本云」などと書名を明らかにしないことが多い。但し一部には書名を明らかにしているものがあり、書名をあげて引用されている文献として次のようなものがあるが、いずれも現存しない。
『日本書紀』の編纂は国家の大事業であり、天皇家や各氏族の歴史上での位置づけを行うという、極めて政治的な色彩の濃厚なものである。編集方針の決定や原史料の選択は、政治的に有力者が主導したものと推測されている。
『日本書紀』の文体・用語など文章上の様々な特徴を分類して研究・調査がされており、その結果によると、全三十巻のうち巻一・二の神代紀と巻二十八・二十九・三十の天武・持統紀の実録的な部分を除いた後の二十五巻は、大別して二つに分けられるといわれている。その一は、巻三の神武紀から巻十三の允恭・安康紀までであり、その二は、巻十四の雄略紀から巻二十一の用明・崇峻紀まである。残る巻二十二・二十三の推古・舒明紀はその一に、巻二十四の皇極紀から巻二十七の天智紀まではその二に付加されるとされている。巻十三と巻十四の間、つまり雄略紀の前後に古代史の画期があったと推測されている。
ところで『日本書紀』は純漢文体であると思われてきたが、最近の研究から語彙や語法に倭習[7]が多くみられることが分かってきている[8]。とくに大化の改新について書かれた巻二十四、巻二十五に倭習が多数あり、蘇我氏を逆臣として誅滅を図ったクーデターに関しては、元明天皇(天智天皇の子)、藤原不比等(藤原鎌足の子)の意向を受けて「加筆」されたのではないかと考える学者もいる[9]。
『日本書紀』は、552年(欽明13年)に百済の聖明王、釈迦仏像と経論を献ずる、としている。しかし「上宮聖徳法王帝説」や「元興寺縁起」は、538年(宣化3年)に仏教公伝されることを伝えており、こちらが通説になっている。このように『日本書紀』には、改変したと推測される箇所があることが、いまや研究者の間では常識となっている。
暦日に関する研究は戦前に既に完成していたが、当時の状況はその研究の公表を許さず、戦後ようやく発表されたのであった。『日本書紀』は、完全な編年体史書で、神代紀を除いたすべての記事は、年・月・日(干支)の様式で記載されている。記事のある月は、その月の一日の干支を書き、それに基づいてその記事が月の何日に当たるかを計算できるようになっている。たとえば憲法十七条の制定は「推古十二年夏四月丙寅朔戊辰(へいいんさくぼしん)」であるが、これは四月一日の干支が丙寅であって、戊辰は三日であることを示している。また研究は、中国の元嘉(げんか)暦と儀鳳(ぎほう)暦の二つが用いられていることを明らかにした。武即位前紀の甲寅(こういん)年十一月丙戌(へいじゅつ)朔から仁徳八十七年十月癸未(きび)朔までが儀鳳暦、安康紀三年八月甲申(こうしん)朔から天智紀六年閏十一月丁亥(ていがい)朔までが元嘉暦と一致するという。元嘉暦が古く、暦が新しいにもかかわらず、『日本書紀』は、新しい暦を古い時代に、古い暦を新しい時代に採用している。既述のように二組で撰述したと推測されている。
元嘉暦とは、中国・南朝の宋の何承天(かしょうてん)がつくった暦で、元嘉二十二年(445年)から施行され、百済にも日本にもかなり早く伝来したといわれている。儀鳳暦とは、唐の李淳風(りじゅんほう)がつくって高宗の麟徳(りんとく)二年(665年=天智4)から用いられはじめた麟徳暦のことを指すと考えられている。
神武天皇の即位を紀元前660年に当たる辛酉(かのととり、しんゆう)の年を起点として紀年を立てている理由は、中国から伝えられた讖緯説を採用したためという学説が、明治に那珂通世(なかみちよ)によりうちたてられ、学界で広く受け入れられている。三善清行による「革命勘文」(『群書類従』 第貮拾六輯 雜部 所収)で引用された『易緯』での鄭玄の注「天道不遠 三五而反 六甲爲一元 四六二六交相乗 七元有三變 三七相乗 廿一元爲一蔀 合千三百廿年」から一元60年、二十一元1260年を一蔀とし、そのはじめの辛酉の年に王朝交代という革命が起こるとするいわゆる緯書での辛酉革命の思想[10]によるという。この思想で考えると斑鳩の地に都を置いた推古天皇九年(601年)の辛酉の年より二十一元遡った辛酉の年を第一蔀のはじめの年とし、日本の紀元を第一の革命と想定して、神武の即位をこの年に当てたのである。異説では、那珂通世の計算には誤認があり、一蔀は「革命勘文」の引用のとおり1320年が正しく従って逆算起点は斉明天皇七年(661年)の辛酉の年になるともいう。
古い時代の天皇の寿命が異常に長い事から、『日本書紀』の年次は古くから疑問視されてきた。今日の学説では、初代神武天皇の即位年を辛酉(紀元前660年)とすることによって、年代を古くに引き上げたとされる。そこでこの紀年がどのように構成されているか、明らかにしようとする試みが紀年論である[11]。また応神紀には『三国史記』と対応する記述があり、干支2順、120年繰り下げると、『三国史記』と年次が一致する。したがってこのあたりで、年次は120年古くに設定されているとされる。しかしこれも、あくまで『三国史記』の原型となった朝鮮史書を参考にした記事だけに該当するものであって、前後の日本伝承による記事には当然適用されるわけではないし、その前の神功紀で引用される『魏志』の年次との整合性もない[12]。