仕事をはじめるための基本用語

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常用労働者

期間を決めず、または1ヶ月を超える期間を決めて雇われている者など、常時使用されている労働者のことです。 外為の請願寺に「右大将頼朝公誕生舊地」と刻まれた石碑が立つ。 頼朝ら一行の都落ちの状況を示す諸本の記載は下記の通りである。/金比羅系本『平治物語』によると、一行は近江国へと至るが、頼朝は野路で戦いの疲れから馬上で眠り、一行からはぐれ落人狩りに遭う。一度はこれを切り抜け野州で一行と合流するが、積雪のため一行が馬を下り歩き始めると再びはぐれ、一月中は浅井に身を潜める。その間に一行は、義朝の妻子が住む美濃国青墓へ至るが、ここで傷を負った次兄・源朝長を亡くし、父・義朝は尾張国野間で長田忠致の裏切りにより討たれる。それを知った長兄・源義平は、清盛らを一人でも討とうと京に戻り、以前の郎党と共に変装して清盛暗殺の機会を狙うが、捕えられ六条河原で首を斬られた。頼朝は雪が消えると浅井を発ち、青墓を経て尾張へと至るが捕えられた。/『清?眼抄』(当時の検非違使の記録)によると二月九日近江国で頼朝が捕らえられたとある。/『吾妻鏡』は大夫属定康というものが大吉寺や私邸に匿ったとする。/古態本『平治物語』によると頼朝は近江国大吉寺に匿われた後、近江浅井北郡の老夫婦の元に匿われ、その後関ヶ原において捕らえられたとある。/なお金比羅系本『平治物語』以外の文献には頼朝が美濃青墓へ行ったとの記載は一切無い。 a b 『清?眼抄』 日経225には後白河院、上西門院の意向が働いていたとの説もある。(元木泰雄『保元・平治の乱を読み直す』)。また、平治の乱の本質は院近臣同士の争いであり、義朝は信頼に従属する者の一人に過ぎず、乱における義朝の立場は従来考えられているものより実は影響力の弱い立場であり、従ってその子供達の処分は軽度のものであったのも当然である、という見解も示されている(野口実『源氏と坂東武士』)。 摂津源氏の源仲綱が伊豆守を勤めていたとの説もある。 池禅尼による助命嘆願から流刑地で北条時政の監視と保護を受けるに至ったことについて、時政の後妻・牧の方の父・宗親が池禅尼の弟・藤原宗親と同一人物であり、清盛と不仲であった平頼盛(池禅尼の子)が頼朝の身柄を保持し続けたとする学説もある。(杉橋隆夫「牧の方の出身と政治的位置─池禅尼と頼朝と─」『古代・中世の政治と文化』、上横手雅敬監修、思文閣出版、1994年) a b c d e f g h i j k l m n o p 『吾妻鏡』 時政の次男・北条義時の通称と同名だが別人である。この時に義時は4歳ほど。 政子と山木兼隆との婚儀については、兼隆の伊豆配流が1179年であり、長女大姫が1178年に誕生している事から物語上の創作と思われる。 この挙兵決意には都の三善康信の知らせやの京より下った三浦義澄、千葉胤頼らの言葉があったとも言われている(『吾妻鏡』)。 『吾妻鏡』の記載する頼朝の挙兵の詳細は以下の通りである。挙兵の吉日を占いで定めると、当時身辺に仕えていた工藤茂光、土肥実平、岡崎義実、天野遠景、佐々木盛綱、加藤景廉を一人ずつ私室に呼び、「未だ口外せざるといえも、偏に汝を恃むに依って話す」と伝える。皆に自身のみが抜群の信頼を得ていると思わせ奮起させたのである。挙兵の前日、参着を命じていた佐々木盛綱ら兄弟が参じず、頼朝は兄弟に計画を漏らした事を頻りに後悔する。しかし当日の8月17日昼、急ぎ疲れた兄弟が参着すると、頼朝は感涙を浮かべてねぎらい、深夜に佐々木定綱、経高、盛綱、高綱、加藤景廉を従え平兼隆を討ち、平家打倒の兵を挙げた。 FXには次のようなエピソードがある。平家方は頼朝を捜し梶原景時は居所を知るが、景時は「ここに人跡は無い」と大庭景親に述べ他の峰に誘った。この間に頼朝は3歳より奉っていた観音像を岩窟に隠し、実平に対し「首を景親らに伝う日、この本尊を見て源氏の大将に非ざる由、必ず誹りを招く」と述べた。 『源平盛衰記』 なお、『吾妻鏡』によると安房上陸後の頼朝軍の動向は次の通りになる。頼朝は最初は安房国住人安西景益の元に迎えられる。その後、房総半島を北上する際、安房国の住人長狭常伴に襲撃されかかるが、合流した三浦義澄の働きで常伴を撃退する。その後千葉常胤の加勢を得ると、9月13日、平家に従う下総国目代を滅ぼし、その後以前から千葉氏と敵対関係にあった平家の縁者千田判官親政を討ち取る。17日には広常の参入を待たず三百余騎で下総国府に入り、常胤から源頼隆を引き合わされる。頼隆は平治の乱で共に戦い討たれた源義隆の遺児であり、頼朝は自身と似たその境遇に感じ、常胤の上座に座らせ家人とした。19日、当初は日和見を決め込んでいた上総広常が2万騎を率いて参じると、本来は喜ぶべき所を逆に広常の遅参を咎め、恭順させる。なお、この広常の日和見をしたことに関しては現在疑問を抱く学説が提示されている(野口実『源氏と坂東武士』など)。また、頼朝の房総北上の行動については、『吾妻鏡』以外の延慶本『平家物語』『源平闘諍録』『源平盛衰記』などには細部にわたる異説がある。 a b c d e f g 『玉葉』 その遺言は「わが子孫、一人と雖も生き残りなば骸を頼朝の前さらすべし」であったともいう(『玉葉』)。 『吉記』 政子の安産祈願の為に鶴岡八幡宮の参道を御家人らと共に自ら手で築く。また政子の妊娠中に亀の前と密通し、それを知った政子に亀の前の住む家を破却されている(『吾妻鏡』)。 『平家物語』『源平盛衰記』ではこのあたりを次のように記している。相模国松田に住んでいた源行家より所領を望まれ、頼朝が断ると行家は越後の義仲に従うべく信濃国へと走った。頼朝は武田信光の讒言を受け義仲を討つべく鎌倉を発する。義仲は越後国関山で2,000余騎を率い待ち構え、頼朝は10万余騎を率いて信濃国佐樟川へ陣を取った。義仲は劣勢を悟ると越後国府へと戻り、頼朝に忠誠を誓う書状を送る。頼朝は天野遠景と岡崎義実を使者として返し、行家か義仲の嫡男義高を差し出すように求める。義仲はこの時11歳の義高を差し出すと、頼朝は義高を鎌倉に住まわせ、6歳の長女大姫の婿とした。 頼朝は義仲失脚にあたって平治の乱で命を救われた池禅尼の息子である平頼盛を通じて法皇と交渉を行っており、頼盛が鎌倉へ下った際、平家都落ちの際奪われていた官職と荘園を戻させ、手厚くもてなしている(『吾妻鏡』)。 この任官が頼朝の不興を買ったという話は最近では否定的な見方をされつつある。また、義経が西国攻めを任されなかった理由として、義経は「京都の治安維持」を要請されその必要上西国に出兵させることができなかった(菱沼一憲『源義経の合戦と戦略』)、一の谷の戦いの直後伊勢・伊賀で平家の残党勢力が反乱を起こした為に出撃できなかった(元木泰雄『源義経』)等の説が提示されている。 それには義経の専横や東国武士達の反感が記されていたとされている(『吾妻鏡』)。 延慶本『平家物語』によると義経は鎌倉入りを許され頼朝と対面し、慰安されたのち鎌倉のはずれで待機されたとされている。 この頃鎌倉では駿河以西の御家人に書状を送り、今度の頼朝の上洛は取り止めたがなお怠りなく軍備を固めるように命じて、いざとなれば大挙出兵して上洛する場合に備えている。 法皇は高階泰経を通じて鎌倉に弁明の使者を出し、使者は11月15日に到着したが恐怖にかられて営中に参ぜず、一条能保の屋敷に行って鎌倉殿あての書状を持参したことを告げた。能保にあてた一通には「義経等の事は、まったく泰経の仕組んだものではなく、ただ義経の兵力を恐れて院に奏上しただけである」と取り成しを願う内容であった。能保は使者を頼朝の所へ連れて行き、泰経の頼朝宛の書状を披露した。それには「行家・義経謀反のことは、天魔の所為というほかない。頼朝追討の宣旨を下さねば宮中で自殺するなどと言うので、当座の騒ぎを避けるための処置であり、法皇の本心ではなかった」という法皇の意向に従った弁明であった。11月26日、鎌倉の使者が泰経に返事の書状を持参して、院の御所の泰経を尋ねると、不在という答えだったので大いに怒り、文箱を院の中門の廊に投げ込んで立ち去った。その書状は兼実に届けられ、表に「大蔵卿殿御返事」とあり、下の署名はなく、内容は「行家・義経謀反のことは、天魔の所為とおっしゃるが、とんでもない事だ。天魔とは仏法の妨げをなし、人倫の災いとなる者の事。頼朝は多くの朝敵を滅ぼし、政権を法皇にお任せしたのに、たちまち謀反人とされてしまったのはどういうわけか。法皇のお考えと無関係に、そもそも院宣が下されるものなのか。行家といい、義経といい、召し捕られぬところから、国々も疲弊し、人民も難儀をする。日本国第一の大天狗はさらに他に居申さぬぞ」と後白河法皇の変心と無責任ぶりを痛罵したものだった。 ^ 狼狽する法皇と泰経は25日に行家と義経の探索を命じる宣旨を重ねて出し、「行家・義経が逆風の難にあったのは天罰である」と義経を罵り、泰経に謹慎を命じる。