仕事をはじめるための基本用語
infomation
住民税
住民税は、その年の1月1日現在に居住していた市区町村で課税され、住民が等しく負担する部分(均等割)と、前年の所得に応じて負担する部分(所得割)からなっています。
セミナー、朝廷より奥州征伐を称える書状が下り、頼朝は按察使への任官を打診され、さらに勲功の有った御家人の推挙を促されるが、頼朝はこれらを辞する。建久元年(1190年)10月3日、頼朝は遂に上洛すべく鎌倉を発し、平治の乱で父が討たれた尾張国野間、父兄が留まった美濃国青墓などを経て、11月7日に千余騎の御家人を率いて入京し、かつて平清盛が住んだ六波羅の跡に建てた新邸に入った。
監視カメラに拝謁し、長時間余人を交えず会談した。ここで義経と行家の捜索・逮捕の目的で保持していた日本国総追補使・総地頭の地位を、より一般的な治安警察権の行使のために改め、永久的なものに切り替わったと推定される。しかし、東国の支配者の象徴として頼朝が熱心に希望していた征夷大将軍に任官できず、代わりに大納言への任官を求められるが、頼朝は辞退し、後鳥羽天皇への拝謁を終えると六波羅に戻る。しかし六波羅に、「今に於いては異儀有るべからず」と記した権大納言任官の院宣が届き、再び辞退の書を返すが、容れられずに叙目は行われた。さらに22日には武官の最高職である近衛大将への任官も打診され、頼朝はやはり辞退するが、24日に右近衛大将へと任ぜられた。12月3日、両官を辞し、11日に勲功の有った御家人を任官させる。権大納言就任が決まった9日の夜、頼朝は九条兼実と面会して胸襟を開いて語りあい、次のように述べている。「今の世は法皇が思うままに政治をとり、天皇とても皇太子と変わりないありさま。さいわいあなたもまだ若くて先は長い。私にも運があれば、法皇御万歳(崩御)の後にはいつか必ず天下の政を正しくする日が来るでしょう」。そして、逆臣として討たれた父の汚名を雪ぐ意味で一旦は「朝大将軍」(国の大将軍)を受けた方が良いと判断した。14日に鎌倉へ戻るべく京を発し、29日に鎌倉へと戻った。
粗大ゴミに後白河法皇が崩御し、同年7月12日、頼朝は征夷大将軍へと任ぜられた。一般的には将軍就任によって鎌倉幕府が開かれたとされる。
建久4年(1193年)5月28日、御家人を集め駿河国で巻狩を行っており、その夜に御家人の工藤祐経が曾我兄弟の仇討ちに遭い討たれる。宿場は一時混乱へと陥り、頼朝が討たれたとの誤報が鎌倉に伝わると、源範頼は嘆く北条政子に対し「範頼左て候へば御代は何事か候べきと」と慰めた。この発言が頼朝に謀反の疑いを招いたとされる。8月2日、頼朝の元に謀反を否定する起請文が届くが、「源」の氏名を使った事に激怒した。8月10日、頼朝の寝床に潜んでいた範頼の間者が捕縛される。これにより範頼は伊豆へ流され、のちに誅殺された。建久5年(1194年)には有力御家人である安田義定を誅している。建久6年(1195年)3月、摂津国の住吉大社において幕府御家人を集めて大規模な流鏑馬を催す。建久8年(1197年)には、薩摩や大隈などで大田文を作成させ、地方支配の強化を目指している。
脱毛、頼朝は東大寺再建供養に出席するため、政子と頼家・大姫ら子女達を伴って再び上洛し、長女・大姫を後鳥羽天皇の妃にすべく朝廷に入内運動を始める。だが、盟友である九条兼実は既に娘・任子を入内させており、反対されることを頼朝は危惧した。そこで京都では兼実ではなく、その政敵である土御門通親や丹後局と接触。大量の贈り物や莫大な荘園の安堵などを行ない、大姫入内の為の朝廷工作を計った。建久7年(1196年)11月、兼実は後鳥羽天皇への通親の讒言により一族と共に失脚、頼朝はこれを黙認したとされる(建久七年の政変)。これにより、朝廷の親幕府派の壊滅、反幕府派の台頭を招くこととなった。建久8年(1197年)7月、入内計画は大姫の死により失敗に終わる。建久9年(1198年)正月、後鳥羽天皇は通親の養女が生んだ土御門天皇に譲位して上皇となり、通親は天皇の外戚として権勢を強めた。もはや朝廷に代弁者を持たない頼朝の反対は無視された。頼朝はさらに次女・三幡姫の入内を企てるが、建久9年(1198年)12月27日、相模川で催された橋供養からの帰路で体調を崩す。原因は落馬と言われるが定かでは無い。
死後その亡骸は彼の持仏堂に葬られた。持仏堂は正治2年(1200年)から法華堂と呼ばれ、多くの法要が営まれている。安永8年(1779年)2月には薩摩藩藩主島津重豪が現在の石塔を建てた。明治に入ると廃仏毀釈により石塔の前に在った法華堂は壊され、明治5年(1872年)、その跡に頼朝を祀る白旗神社が建てられた。なお石塔は昭和2年(1927年)に「法華堂跡(源頼朝墓)」として国指定史跡とされている。
包茎にも白旗神社があり、社伝によると北条政子が朝廷より白旗大明神の神号を賜り正治2年(1200年)に創建したされる。源頼家の創建とも伝わる。明治21年(1888年)に現在地に遷座した。明治以降は日光東照宮の相殿にも祀られている。
現在は源頼朝公墓前祭が、毎年4月13日の命日に、鶴岡八幡宮の神職により行われている。また日光東照宮で春と秋に行われる千人武者行列では、頼朝の神輿を担ぐ行列が参道を往復し、兵庫県川西市の多田神社の源氏まつりでは、頼朝に扮した騎馬武者を見られる。
『平治物語』は「年齢より大人びている」、『源平盛衰記』は「顔が大きく容貌は美しい」と記している。寿永2年(1183年)8月に鎌倉で頼朝と対面した中原泰定の言葉として『平家物語』に「顔大きに、背低きかりけり。容貌優美にして言語文明なり」とある。九条兼実の日記『玉葉』は「頼朝の体たる、威勢厳粛、その性強烈、成敗文明、理非断決」(10月9日条)と書いている。身長は大山祇神社に奉納された甲冑を元に推測すると165センチ前後はあったとされ、当時の平均よりは長身である。
トラック買取は多く伝わっている。京都神護寺蔵の肖像画(神護寺三像)は、頼朝を描いたものとして伝わり、大和絵肖像画の傑作として国宝に指定されている。しかし平成7年(1995年)に米倉迪夫が、その画法や服装から足利直義を写した物とする学説を発表し、像主について議論が続いている(→詳細は神護寺三像を参照のこと)。鶴岡八幡宮に伝わっていた木像は、江戸時代には頼朝像とされ、現在は東京国立博物館が蔵し重要文化財に指定されている。甲斐善光寺蔵の木造源頼朝座像は戦国期に信濃善光寺から移されたものであるが、胎内銘から文保3年(1319年)に彫られた最古の頼朝像であると考えられている。
頼朝配下の東国武士団は独立心が強く、同族程度の団結以外に大きな一つの組織に結集する事を知らず、戦では個々の功名にはやって各個撃破されるような体であったものを、頼朝は御家人として一つにまとめ上げた。
文治元年(1184年)4月、頼朝の推薦を受けずに朝廷の官職についた御家人たちの容姿を細かくあげつらって罵倒する記述があるが、これは頼朝が御家人一人一人の容貌を含めて熟知していた事を示すものである。ある合戦の報告を聞いて「○は討ち死に、△は遁走、というがそんな事はあるまい。○が遁走、△が討ち死にの間違いだろう」と指摘し、調べてみるとその通りであったというエピソードが『吾妻鏡』に多くある。側近の一人で公事奉行人の藤原俊兼が贅沢な衣服をまとっているのを見た頼朝は、刀で小袖を切り落とし、「千葉常胤や土肥実平などは善悪も判断できぬ程度の武士だが、衣服などは粗悪な品を用いて贅沢を好まない。だからその家は裕福で多くの家人・郎党を養い勲功をあげようとしている。それなのにお前は財産の使い方も知らず、身の程をわきまえておらん」と訓戒を加えた。このように側近官僚と東国御家人の双方ともによく知りぬき、適材適所を使いこなしていたのである。
異母弟義経や従兄義仲を滅ぼしているところから、「身内に厳しい人物」との印象が強い。反面、同母弟源希義の死に怒り狂い、仇に徹底的に復讐している面もあり、概して一条能保や足利義兼のような母方から繋がる縁者は優遇している傾向がある。 自分の妻子には甘く、巻狩りで12歳の息子源頼家が鹿を仕留めた時にははしゃぎ過ぎて妻の北条政子に窘められている。
生涯において前線で戦うことは少なかったが、個人的な戦闘能力は意外と高く、石橋山の戦いでは鎧武者を一撃で倒すなど叔父源為朝譲りの強弓を披露している。 戦術家・前線指揮官として義仲や義経に劣っていたことは本人も自覚していたが、軍事組織を運営する能力では上回っており、彼らとは違った意味で名将と言える。